未来を哲学する

未知なる世界を探求、想像し、哲学的な視点から独自の考察を紡ぐブログです。

私を食べて?

リジェネラティブでもう一つ。

私はことあるごとに「俺が死んだら鳥葬にして」と家族に言っています。

鳥葬とは、死体の処理方法のひとつで、肉食の鳥類に死体を処理させるものです。

ま、日本では法律上できないので、半分冗談ですが。

人間は食物連鎖の最上位に君臨していますが、本来はピラミッドではなく循環型だと思っています。

なので、私の身体も自然循環の中に帰依すべきと思うのです。

とても理にかなっている葬儀方法と思います。

言ってしまえば、世の中のモノはすべては素粒子(物質を構成する最小の単位。私が子供のころは原子だったのですが・・・)でできているわけで、本を正せば、みな一緒であって、ひとつであるのかな、と。

こういう仏教的な思想、私は好きです。

で、鳥葬の話に戻ります。

鳥葬はチベット仏教ゾロアスター教(古代ペルシャやインド)で行われていました。今でも一部の地域では行われています。

以前、鳥葬の続いているインドのとある地域のニュースを読んだのを覚えています。

鳥が激減したため、死体が食べられずに残ってしまい、異臭が酷くて制限がかかったと。

環境問題がこんなところにまで影響があるとは、恐るべし。

半ば鳥葬を諦めていた私ですが、リジェネラティブの動きの中で希望を見つけました。

堆肥葬と言われる、死後に堆肥にしてしまうものです。

これなら、自然循環の帰依するという私の望みが、もっとマイルドな形で実現できますね。

私の堆肥で育った穀物は誰が食べるのでしょう。

意外と知人や親族は食べたくないかも?